人に「気をつかうべき」か「気をつかわないべき」か、正しいのは…

友人の言葉に驚いた

先日、友人と会う機会があったのだけれど、その第一声にわたしは驚きました。

「Aさんは本当に信頼できない」

Aさんというのはその友人のお友だちのことで。

親しいまではいかないけれど、それなりのお付き合いはあった人。ところが、そのAさんのことを信じられない、ときつい表情で怒っていた。信頼関係がなくなった、と。

何があったのだろう、と話を聞いてみると、彼女はこう話しはじめた。

「この間、Aさんを自宅に招いたのだけど、その時に『おじゃまします』と『おじゃましました』の挨拶がなかったの……」

え……。わたしは正直驚いた。そんなことくらいで信頼関係がなくなってしまうのか、と。

友人にとってAさんはまったくの他人ではない。

自宅に招くほどなので、どうでもいい関係ではないだろうし、友人であったはず。それが「おじゃまします」「おじゃましました」の挨拶がなかったくらいで信頼関係がなくなるのか。

一瞬、反応できないほど、驚きながら聞いていると、友人にとってはそのことで一瞬にしてAさんの品のなさを感じたらしい。

きっと、Aさんは未だに彼女(友人)と仲が良くていい関係だと、今でも一方的に思っているはずなのに……。

そんなに気をつかう必要があるのか…

わたしはそれとなく、「おじゃまします」「おじゃましました」ではなく、「こんにちは」と挨拶する人だっているし、そこまで言わなくても、とAさんを少しかばうように話してみたのだけど、友人は「絶対にあれはない」と強く言い張っていた。

友人とAさんのどちらが正しいのかはともかくとして、友人にとってAさんが許せなかったことは事実で、そうした品のなさが人間関係を終わらせてしまうこともあるのだな、とわたし自身も背筋が伸びた。

ただ、「品ってなんだろう」と考えていた。

世の中には「気をつかわない関係こそが素晴らしい」と言う人がいる。

一方で「(どんなに深い仲でも)気遣いを忘れないことが重要だ」と言う人もいる。まさに親しき仲にも礼儀あり。

今回のことだって、友人にとっては許せないほど品がないということだけれど、Aさんにとっては品がないなどと思っていない。

「気をつかわない」ことと「気をつかう」こと、一体、どちらが正しいのか、とも考えていた。

オートクチュールのデザイナーの言葉

そんな風に「品」について考えていた時に、オートクチュールで洋服を作っているデザイナーさんから話を聞く機会がありました。

専門学校を卒業したあと、パリのニナリッチで修行をし、女優さんの洋服を作ったり、スタイリストをしていた方。今でも日本でオートクチュールの洋服を作っていて、とてもお洒落で、スタイリッシュ。

「もう老眼で目も見えにくかったりするよ」なんて言うけれど、そんなことを微塵も感じさせないぐらいお若い。噂では70歳らしい(はっきりした年齢はわからないのです)まあ、年齢なんて関係ありませんが。

一緒に話を聞いていた方が、デザイナーさんにこんな質問をした。

「普段の生活の中で、どんなところに美を感じますか?」

これだけセンスが問われる職業の人はどんなところに美を感じて生きているのだろう、とわたしも前のめりになって聞いていると彼から予想外な答えが返ってきた。

「美は人が評価するもの。自分で評価するものではないとおもう。自分で“これは幾らだったのよ”とか、肩書きとかひけらかす人がいるけれど、ちっとも美を感じないよね。品がない人には美を感じない」

とても印象的な答えだった。

美、というと洋服や肌、ヘアスタイルなどの物質的なものを浮かべがちだけれど。彼は「品格」も美の評価に付け加えていて、なおかつ「人が評価するもの。自分で評価するものではない」と言っていた。

品は他人が評価するもの

わたしにはそれらの言葉が響いた。

品がない人には美を感じない。
「品」は「美」でもあり。
美は「人が評価するもの」。自分で評価するものではない。

友人がAさんのことを「おじゃまします」「おじゃましました」の挨拶がなく、信頼関係がなくなったと語っていたけど。

これもまさにそうだな、と感じた。

Aさん自身にとって、親しい関係なのだから、「おじゃまします」「おじゃましました」という言葉など堅苦しくて、不要だと思っていたかもしれないし、「こんにちは」と挨拶しているのだからいいでしょ、と考えていたかもしれない。

それはAさんにとっては正しいことなのだろう。

でも、品は自分で評価するものではなく、他人が評価するもの。Aさん自身がどれだけ正しいと思っていても、受け手である他人がどう思うかが大事。

つまり、友人がそのことをどう思うかが大事なわけです。

ここであなたは思うかもしれない。

「気をつかわない関係が好きな人もいる。わたしはそんな堅苦しい関係は嫌い」

そう、色々な人がいるのです。気をつかいすぎるのも違う。

「気をつかわない」ことと「気をつかう」こと。そのバランスがまさに必要で。相手(他人)のことをよく見て、この人はどういう人なのかを考える。

ただ、どんな人にも大切なのは

「挨拶」

「おじゃまします」「おじゃましました」がどうこうではなく、「ありがとう」や「おはよう」や「こんにちは」など、そうした挨拶は誰を相手にしても必要です。

その挨拶を大切にして、(不自然に)堅苦しくなりすぎないように、親しき仲にも礼儀あり、これが大切だと最近は考えています。