発信することが怖いあなたへ

あと14年たつとわたしは父が亡くなった年齢になる。

何度も登場する父なのでいつまでも父のプロフィールを書くのは気が引けるけれどこのブログが何となく検索に引っかかり読んでくれているかたもいるかもしれませんので、しつこくて申し訳ないのですがまた書きます。

わたしの父は東日本大震災にて津波で突然亡くなりました。本当に突然。

56歳で亡くなった父の年齢にあと14年で追いつくなんて不思議な気分だ。

誰にでも親が存在する。生まれてすぐに両親が離婚してしまったとしても生きている限り地球のどこかに存在している。育ての親と生みの親が違うとしても自分にとっての「親」というものは存在する。そして、何かの間違いはあれどたいていは親のほうが自分よりも早くに天に召される。

父の亡くなった最後のことを詳しくnoteに書いているのでよかったら読んでください。

https://note.com/kawaimegumi/n/n091fb6f0a0b6?magazine_key=mde296575f88f

棺桶に入っている父を見たとき

「え?お父さんが存在していたことは忘れられていくの?」

という疑問がわいた。少なくとも家族はもちろん覚えているだろうし父が存在していたことをなかったことにはしないだろう。だけど、お葬式が終わり誰もが少しずつ生活に戻る。震災のことは3月11日に思い出すとしてもどのぐらいの人が父のことを頭の片隅にとどめてくれるのだろう。そんな疑問がわいた。

震災では父以外のたくさんの命も天に召された。その凄まじい映像を福島県でこの目で見てきた。

普段なら運動で使われる県の体育館が遺体安置所になってブルーシートに包まれている人たちを何百と見たし脳裏に焼き付いている。その人の数だけのストーリーがあり、いまだに苦しみから解かれない家族だっているはずだ。

その人たちのことも忘れたくない、そう思った。この光景はつらいことだけど忘れてはいけないことだと思った。

じゃあ、わたしには何が出来るのか。

そして

「もし、わたしが今死んだら“なかったこと”になるのかな」

なんてことも考えた。そんなわけないでしょう!という優しい言葉が聞えてきそうだけど本気でそう思ったんだ。近しい家族や友達、一緒に働いたことがある人やわたしと少しでも関わりをもってくれた人はもしかすると覚えてくれているかもしれない。だけど、それだけ?わたしが必死でもがいて生きてきた人生はそれだけなのか?

それはあまりにもつらかった。

たくさんの友達が欲しいわけでもないけれど、自分が必死に生きてきた形跡が残せないことは耐えられなかった。

だから父の生きた証と自分が死んだあとに何かを残したくて本を出した。

そう、出版の原動力は自分本位なものだった。

残すものは音楽でも作品でも、物でも何でもよかったけれどわたしには「書く」ということが一番しっくりきた。わたしの言葉が誰かに届いて欲しい!という自分本位の祈りであり、浄化だった。

友達が以前、こんなことを話してくれた。

「昔は自分が死んだあとに何か発見されたら恥ずかしいから残したくなかったんだけど、最近は何かを残していこうかな、って思うの」

素敵だと思うし、わたしも同意見だよ。日記なんか出てきて子供たちに見つかった日には恥ずかしくて死んでも死にきれないと思っていたけれど(今も少し恥ずかしいけれど)今は本を出してよかったと感じているし、実際に父が仕事で使っていた手帳が車内から見つかったとき嬉しかったのを覚えている。

これがわたしが発信をする理由だ。

父の几帳面な性格や堅実だったところが手帳から感じて一気に思い出がバババー!っと蘇った。死んだ父を神格化したくはないのできれいごとばかり書きたくはないけれど直筆で大切に使われていたものは残された家族にとってはどんなものでも宝物になるし、生きていた証になるんだ。肉体は火葬されて灰になり土に帰るそのあと、残される家族のためにも生きた証を残すことはわたしは賛成派だ。物でも何でもけれど、わたしは「書く」。これがわたしが発信をする理由だ。

コロナの影響で人と人が分断する世の中になっている。死を身近に感じた1年だったのではないだろうか。会えない時間があるぶんインターネットの便利さを再確認し、どうにかさみしい心を満たそうと誰もがもがいている。亡くなった人が最後に送ったLINEを大切にする人、様々な情報をネットから探そうとする人、SNSで離れている友達の近況を知ろうとする人、zoomで仕事が便利になる人、YouTubeの発信で世界中の人と繋がり自分が一人じゃないんだと確認する人、人を喜ばせることも傷つけることも出来るインターネットだけど、ぜひ優しい言葉を残して欲しい。発信、書くことはものすごい可能性と生きた証を残すということを忘れないでほしい。

あなたの言葉で元気をもらっている人が必ず存在しているよ。