
完治しない女として、これからも書く。
承認欲求という言葉が、いつから悪になったのだろう。
承認欲求が強いと言われると、まるで人格に問題があるような空気になる。克服すべきもの、恥ずかしいもの、大人になったら卒業するもの、そういう文脈で使われることがほとんどだ。
でも待ってほしい。
SNSをやっている人間は全員が承認欲求をもっていると感じる。わたしも含め。投稿する、発信する、読まれたい、いいねが欲しい。それのなにが悪いのか。あえて言えば気持ち悪いのは実生活と投稿する内容があまりに乖離していると違和感を感じるが承認されたいという欲望は、人間の最も根本的な欲求のひとつだ。それを「ダメなもの」として恥じさせる空気や「悟ったので承認欲求はもうありません」のほうがわたしにはずっと嘘くさく見える。
承認欲求は悪じゃない。業だ。
業は消すものじゃない。克服するものでも手放すものでも、恥じるものでもない。抱えたまま、どう使うのか、の問題だ。手放したのではなく、見えないところに隠しただけだ。
だからわたしは最初に言っておく。この記事は承認欲求を克服した女の話しではない。
父が津波で亡くなった。
遠く離れた故郷の海が、一瞬にして父を奪った。葬式では「人生は無常だ」と何度も聞いた。でも私が感じたのは違う感覚だった。ああ、人間は死ぬんだ。その時に何が残るのか。
父の顔は家族の記憶に残る。その話は兄妹で繰り返され、やがて孫たちに繋がっていく。物理的な身体はなくなっても、痕跡は残るんだ。それが人が死後も忘れられない理由だ。だから私は書く。死後に読まれる言葉として。
20代のわたしは、本音で生きていた
借金してブランド品を買った。ホストに通ったこともある。愛されたい、美しくいたい、世界に認められたいという欲望に、真っ直ぐ向かった。友人たちはそれを責めなかった。むしろ一緒に遊んでくれた。あの頃、私は「いい女」ではなかった。ただ、本音で生きていただけだ。欲しいものは欲しい。美しくいたい。認められたい。それは病ではなく、人間だった。30代になって、40代になって「いい大人らしく」振る舞うようになった。承認欲求を隠すようになった。でも消えない。形を変えながらずっと続いている。
絶望から立ち上がったのは、怒りとプライドだった
全部が崩れた時期がある。結婚はうまくいかず、東京での夢は消えた。実家に帰る屈辱を味わった。そこで何が起きたか⸺感動的な話ではない。
ただ怒りだけが残った。「こんなところで終わってたまるか」という怒りとプライド。その一点で、私は立ち上がった。人生の転機を「気づき」や「学び」で説明する人は多い。でも本当は違うと思っている。底にあるのは、原始的な怒りだ。自己否定されたような思い込みや、認められなかったことへの怒り、それが私を書くことへ向かわせた。
シンデレラメソッドは、怒りの昇華だ。
承認欲求を克服したんじゃない。承認欲求を燃料にして別の形に変換した。それだけのことだ。
今も、病は続いている
完治した話は嘘くさい。私は完治していない。
娘を私立小学校に入れたのは、子どものためだと言いながら、本当は自分の承認欲求だったんじゃないか。息子をインターナショナルスクールに入れたのもそうかもしれない。親として「いい人生を与えている母親」を証明したかったのではないか。20代のブランド品購入と、今のプチ整形とCHANEL購入は、本質が同じだ。形は変わった。借金せずに買えるようになっただけ。欲望は消えず、人生を通じて変態し、質を上げながら生き延びている。46年間で一度たりとも消えたことはない。
これを認めることが、わたしにとっての正直さだ。「承認欲求を手放した」と言うことのほうが、よほど嘘くさい。SNSを続けながら、発信しながら「わたしは承認欲求がありません」なんて言えない。承認欲求はわたしの業だ。業は仏教用語だけどカルマとも呼ばれる。うまく背負えるようになることが、わたしの言う「したたかさ」だ。
無理して「いい大人」になるな
ボーヴォワールは「女に生まれるのではない、女になるのだ」と言った。
その通りだ。でも私が言いたいのは、その先だ。どう「なる」のかは、あなたが決めろ、ということだ。完璧な人間になることではない。社会が期待する「いい女」になることでもない。むしろ逆だ。本音で生きることが強い。自分の欲望を理解することが、判断を速くする。過去の汚点や失敗は恥じるな。それはあなたが生きた証だ。
死ぬとき、どうせ後悔するんだろう。
ならば今、後悔せずに這いあがれ。本音で生きて、欲望と折り合いをつけながら、それでも前に進む。その痕跡を言葉に残す。
やがて死んでも、文章は読まれる。父の記憶が家族に繋がるように、私の言葉も誰かの心に痕跡を残すだろう。それが不死性だ。
だから私は書く。
完治しない女として。本音で生きた女として。承認欲求を業として抱えたまま死後も読まれる記録として。完治しなくていい。業は消えなくていい。
ただ正直に生きよう。それだけ。
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